伊藤博文墓所(品川区指定史跡)
「東京文化財ウィーク」で品川区内の品川区内の都の文化財が公開されます。
JR西大井駅に近い所にある伊藤博文墓所は大森の往復によく自転車で通る道なのですが普段は門が閉まっています。今年こそは見学したいと一般公開のこの日を待っていました。
伊藤博文は幕末から明治時代に活躍した政治家です。吉田松陰に師事して尊皇攘夷運動に身を投じますが、イギリスに留学して開国論に転じた人です。明治維新の後、政府の要職を務め、明治15年にヨーロッパに渡って憲法や政治制度などの調査を行ってきました。その成果をもとに大日本帝国憲法の制定や内閣制度の採用等近代日本の政治制度の基磯を築き明治18年には初代内閣総理大臣になりました。明治38年(1905)から5年間韓国総監を務めた後、明治42年(1909)にロシア蔵相と会談の為中国東北部のハルピンを訪れた時、朝鮮の独立運動家安重根に狙撃され亡くなりました。自邸がこの辺りにあったことから国葬の後この地に葬られました。高さ2メートルの円墳の前に配した神式の墓所で右隣にあるやや小ぶりのは梅子夫人のお墓でした。博文の旧宅は平成10年に解体されて出身地山口県萩市の旧宅の地に移築保存されているそうです。
「歴史秘話ヒストリー」というテレビ番組を楽しく観ていますが、随分前に伊藤博文と梅子を取り上げていました。近代日本の政治制度の築いた伊藤博文より奥さんの秘話がとても面白かったことを覚えています。17歳で亀山砲台にあったお茶屋さんでお茶子をしていた時に出合ったそうです。あまりの美しさに伊藤博文の一目惚れだったそうですが、当時同志の妹すみ子さんと結婚していたので正妻でないと駄目という梅子側の申し出に離婚してから結婚したといいます。明治天皇にも注意された位の女性好きだったそうですが、芸者さんを連れての帰宅も多かったみたいですが、芸者さんが帰る時には反物を持たせたり、お化粧や身の回りの物まで笑顔を以てお世話したといわれています。見上げた根性ですね。
字を書けなかった梅子は字を習い、歌を勉強し、津田梅子について英語まで習って教養を深め鹿鳴館での社交をそつなくこなしたいう話は有名ですね。良妻賢母と称えられていた、初代のファースト・レデイです。
「各駅停話」によると伊藤博文は富士山が見えるあの辺りを散歩するのが好きだったそうです。だからあの場所に葬られたと地元で伝えられています。JR西大井の西側の住宅街には「伊藤」とつく保育園、幼稚園、小中学校がありますね。地名は「伊藤」ではないのですが・・・・。