子供達に手がかからなくなって、旅行をする機会が多くなった時、夫が何か目的を持った方が計画を立てやすいよと、言ってくれたので、国内外を問わずに世界遺産を観る旅を目的にしようということに二人で決めた。ユネスコ登録の遺産がどの位あるか分からないけれど、(記憶では700くらいと思う)足腰丈夫で、旅が出来る限り、せいぜい75歳位まで自然遺産・文化遺産・複合遺産を沢山見て廻ろうと世界遺産の旅はスタートした。
世界遺産の旅(1)
インド(1999年9月26日~10月3日)
インドという国でイメージするものは、タージ・マハル、人口世界一、サリーを纏った美しく堀の深い女性、何の意味なのか額に真っ赤な印、現存するカースト制度、義務教育制度がないetc・・・・・。国内の世界遺産の屋久島の縄文杉を残して(この年の夏、屋久島を計画したけれど、催行人数が満たされずに、行けなかった。)海外の世界遺産の旅にインドを最初に選んだのは何だったのか?今でも不思議な気もするけれど、姉を誘って残暑の日本を後にした。ニューデリー空港に付いたのは、9月26日の16時20分イミグレイションを通り迎えのバスの所へ行く道々、裸足の人たちが地べたに座り込んでじっと私達を見ている大きな瞳が怖い位に感じた。その上に街中に香辛料(とくにカレーの匂い)とガソリンのような臭いが充満して旅の疲れに追い討ちをかけられたようだった。旅の説明会で水の注意をしつこいほどに受けていたので(ホテルの水も危ないとのこと)水を日本より持参したので、それだけでトランクの中は一杯で重くて、憂鬱だった。物の本によるとインドを旅すると、すっかりはまる人、二度と行きたくないと思う人に二分されるというが、私は後者かもしれない。観光名所で身動きの出来ないほどの子供達に囲まれ「マダム、プリーズ」・「マダム、プリーズ」と物乞いをされ、何処までもついてきて本当に困り果てた。幼稚園生くらいの子供が、赤ちゃんを背負っていて、裸足で・・・・・・・。凄く悲しくなる思いを一杯した(私の勝手な思いなのだが)お金を上げるのは良くないと日本を発つときに聞いていたので、私はお菓子を沢山、日本より持参したのでリュックから毎日わたしていた。後で聞いたことだけれど同情を引く手なのだそうである。私には決してそうは思えなかったけれど。あの大きく、美しく澄んだ瞳の子供達が嘘をつくはずがないと、今でも信じている。ホテルの敷地より出ないようにと厳しく注意をうけていたが、ホテル内では、マハラジャ(階級の上の人たち)が家族でお食事に来ている光景をよく目にしたが、こんなに貧富の差があっても、何にも思うことはないのか?カースト制度で生まれた時の階級がそのまま続くことも、きっとそれを当たり前と思っているのだろうけれど、自由主義経済の日本に生まれたことつくづく幸せに思った。インドで観た世界遺産の数々は素晴らしい物ばかりで、意義のある旅ではあったが、まだまだ、たくさんインドに世界遺産はあるけれど、暫くはインドへは行きたくない気分である。エネルギーを凄く必要とした旅だった。
※タージ・マハルと象に乗った私(向かって左)サリー着てます